この曲を聴け! 

『自爆テロ』と『神風特攻隊』の違いは・・。
ヴィレ (2004-08-18 21:19:00)
何を今さら、半世紀以上前の堅苦しい難しいことを、と読み流されるだろうと思っていました。
実はこの書き込みをしてすぐに、連日の猛暑の疲れを癒しに2日間温泉に行ってました。 帰宅し、ここを見たら熱気に満ちた議論が行われていて驚き感動しました。
皆さん、ありがとうございました。
少なくても、こちらに書いて頂いた方は読んで下さるかと思い、再びこのスレの本題について
本書の主題は、序章のはじめにある通り「日本の絶対主義的政治体制下において政策がどのように『美化』されたか、シンボルとか理想を『美化』することによって、政策がいかに国民に抵抗少なく受け入れられていったか、という過程についての研究」です。
著者は当初、花見について研究しようとして、調査を進めるにつれ、桜花の美しさが明治以降の日本政府に利用され、桜の花が散るように、多くの若者たちが特攻隊員として海の藻くずとして消え去ることになったことに注目。
具体的には、五人の学徒特攻隊員を取り上げて分析をしている。
特攻作戦・・・将校らは意味のない死の任務であることを知っていて志願しなかった。
その多くは学徒と少年飛行兵士だった。
なぜ確実に死を意味した悲惨な特攻攻撃に、若者たちの多く(その内の85%が当時の知的エリートの学徒兵)が、従事したのか。
散る桜が戦死の象徴として極めて有効だった理由は、桜が一義ではなく、その背後に豊かなイメージが、様々な景色が、言葉にならない情趣が控えていたからに他ならない。あえていえば「誤認」の可能性こそが「大義」を支え、さらに「大義」に殉じることを「自然」と思わせ、マルクスを読む学徒兵をも特攻隊に志願させたのである。
当初の特攻作戦への従事は、明らかな志願制であったが、戦争末期での制度は志願制としながらも半ば強制的であったのも事実である。
アラーの神を信じたテロの実行犯が宗教的な確信から「自発的」に犯行に及んだと思われるのに対し、特攻隊員の多くは「お国のため」に、意に反して死んでいった。逃げられなかったからだ。特攻を拒否した人たちが「もっとも危険な前線に送られて、いずれにしても死んだ」また「もし、あなたが拒否すれば軍があなたの家族やあなたの村にもその事を告げ、あなたの愛する家族や村は恥の中で生きねばならない」と苦渋の選択を迫られた。
国策だったとしても「一人ひとりが途方もない規模の悲劇を導いてしまう歴史の流れの一端を担うことがありうる」ことも指摘している。
何故テロ実行犯たちは自爆を恐れないかというと、自爆すればアラーの神のもとに行け神になれるからです。
それに相反して、特攻隊員は民間人を犠牲にしなかったので同じ扱いはできない。

それと、あおさんの言われる
>「科学」とは捻じ曲げられていない真実、その真実の中には例えどのような理由があってもその中に個人的感情を入れて発言をしてはいけない・・、ということです。
科学的とは論理的・客観的・実証的であることで、科学とは「百科の学術」に由来することですから、あおさんの言われるのに近いと思います。狭義には自然科学・社会科学・人文科学などに分類されてますね。
特攻隊員たちの手記も過去に数多く出版されているが編集者のイデオロギーを反映したものになっているものが多い。
本書『ねじ曲げられた桜』は、そういった意味でも社会科学に属すると思います。

→同意