1979年、平沢が所属していたバンド「マンドレイク」を母体に結成。
シングル『美術館で会った人だろ』でデビュー後、ヒカシュー、プラスチックスと共に「テクノ御三家」と呼ばれ、日本のテクノポップ/ニュー・ウェイヴ・ムーヴメントの一翼を担った。
しかし、平沢と音楽性についていけなかったなどの理由でバンドを離れるメンバーが続出し、ついには「凍結」するハメに。が、1991年9月にはメンバーを選出して「解凍」。それでも納得のいく方向性へ舵をきることが困難だったのか2000年に「培養期」という名の長期休止(解散とも)に入る。
一応、平沢一人による「核P-MODEL」もあるがこれは別物。